創業者について
齋藤優の最も大切にしてきた想いは「人への感謝」である。
「人は1人では生きていけない(そんなことないという人も、今食べているものも誰かが作ってくれたものである)」これまで支えてくれた社員や家族、取引先の皆さん、地域の皆さんへの感謝を生涯忘れず、会社経営の傍ら、地域の公職(警察防犯協会長、納税協会長、大山崎町教育委員長 等)も30年以上勤め上げた。
また、予科練戦友会、小学校や京五中時代の同窓会も、毎年発起人として主催するなど、80年以上常に人の輪を繋ぐ役目を楽しみながら引き受けた。
やる時は徹底的にやる、遊ぶ時は思う存分遊ぶ!創業者のそんな想いを胸に、東亜セイコー社員一同これからも頑張って世界中の技術発展に貢献していきます。
創業者 齋藤 優(本名 豊)
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S3.08
京都府乙訓郡大山崎村にてにて次男坊として誕生。 -
S5
幼年時代の日常生活は、「朝起き、洗面を済ますまでは、誰にも声をかけてはいけない。洗面を終えると、先ず神棚を拝する。その次にひざまずいて両親におはようの挨拶。兄には絶対逆らわぬこと」等、非常に厳しく育てられた。 -
S10
大山崎尋常高等小学校入学。 -
S15
この頃両親が相次いで病死。兄弟3人で生きる決意を固める。 -
S16
京都府立京都第5中学校へ一期生として入学。学資がなく平安特議会より奨学金を受ける。
「家を守るには国を守らねば」という熱い心を感じる。 -
S16
12月8日 真珠湾攻撃から大東亜戦争へ突入。 -
S19
特攻隊の一員として甲種飛行予科練へ志願、合格。卒業後、航空隊の実施部隊の一員として舞鶴海兵団へ派遣され、乙飛予科練係として一時、臨時勤務。戦時中、顎に弾をかすめるという軽傷も負い、忘れることの出来ない経験である。 -
S20
復員後、大阪歯科専門学校へ入学。しかし、学資不足のため退学。同年、これからの日本の復興には絶対科学技術が必要だと考え、工学を学ぼうと立命館大学専門部の工学部へ入学。学資を得るためパンの販売を思い立ち小売をして稼ぐ。
「材料を安く仕入て商品を高く売る」という商売の極意を初めて学ぶ。 -
S23
立命館大学卒業。国家主任技術者第二種取得。在学中から将来、通信技術の時代がやってくると考え、新しいアイデアの発明を志す。
卒業後1年の間、いろいろな発明に取組み、悩み多い月日が続いた。研究を続けながら7ヶ所も仕事を転々としたが、自分にふさわしい場所を見つけだす事はできなかった。 -
S26
ある日突然、今まではっきりしなかった思いつきが、その時非常にはっきりとつかむことができたのである。早速実験にとりかかった。当時はまだ、日本製のテレビがなかった時代に輸入された外国テレビが日本の電圧に合わないため、画面がはっきりと映らなかった。その電圧を自動的に調整するものがあったなら大変便利だろうと、長い間暗中模索していたのだが、遂に完成したのである。名づけて、自動定電圧装置(スタビライザー)という。 -
S27
この年24歳にて個人会社創業。 -
S40
この頃顧客の手形が不渡りとなり幾度となく倒産の危機が訪れる。
この時の心境を次のように詠んだ。「資金繰り、形は見えねど、血の小便 - 豊 -」危機的な時に社員の給与大幅UPし活力を与え、銀行借入は必要額の2倍借りる「倍借金経営」を思いつき、常に資金繰りを大幅改善して、創業以来最大の危機を乗り切った。
これを期に無借金経営に取り組む。 -
S47
大山崎町教育委員任命。以降、教育委員長を含め、30年以上公職を兼務し、地域の活性化に尽力した。 -
S53
近畿地方発明表彰 受賞 -
S55
無借金経営の目標を達成し、社訓「3つの余裕(心・時間・お金)」の最初の目標を達成。 -
S64
地元への感謝の証として大相撲大山崎場所開催
(東セグループが3000人の大山崎町民を無料招待) -
H3.06
京都府より自治功労賞受賞。 -
H20.11
秋の叙勲にて旭日双光章受章。(教育功労) -
H26.06
大山崎町役場へ天皇皇后行幸啓記念碑寄贈 -
H27.12
88年の波乱万丈の人生に幕を下ろす。
最後まで人への感謝と義を忘れない生き方を貫いた。